新撰組副局長として知られる土方歳三の趣味は俳句でした。
彼は、新撰組内部に局中法度という厳しい戒律を作り、これに背いた隊士は例え幹部であっても切腹を命じていました。
このため、隊士たちから非常に恐れられ、「鬼の副長」という渾名を付けられていました。
そんな彼は、ときどき部屋に一人で籠もって俳句を作る習慣があり、事情を知らぬ隊士たちからは、何か恐ろしげな襲撃計画や粛清でも考えているのかと勘ぐられ「副長の穴籠もり」と呼ばれていました。
土方歳三を主人公にした司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」では、沖田総司が、土方の俳句の趣味を「豊玉宗匠、なかなかのご精励ですな」などと言ってからかっています。
豊玉(ほうぎょく)は土方歳三の俳号です。
土方は1835年、東京都日野市の「お大尽」と言われる裕福な農家の10人兄弟の末っ子に生まれました。
祖父は三月亭石巴という俳人で、それなりの実力者であったようです。このため、土方家には連句(俳諧の連歌)を嗜む文化的な一面がありました。
このような家風で育ったために、自然と俳句の素養を身につけたのでしょう。
ただ、彼は14歳の頃から丁稚奉公に出され、その後は「石田散薬」という薬の行商を命じられています。その上、幼い頃から腕っ節の強い乱暴な少年で、剣の腕を磨くことに興味を覚え、各地の道場で他流試合を行なったりしています。
井上松五郎の勧めで天然理心流に入門してからは、さらに剣の道に邁進していき、『武術英名録』(江戸を除く関東地方の剣術家名鑑)に名が載るなど、実力者となっていきます。
このため、家にいることが少なく、必然的に兄弟に混ざって連句をする機会にあまり恵まれなかったようです。「副長の穴籠もり」のエピソードにもあるように、そのときどきの気持ちを一人で句に託していたようです。
おそらく、剣の道を歩むことによって生じたストレスを、俳句によって発散していたのでしょう。
このためか、俳句の実力はアマチュアレベルで、司馬遼太郎はハッキリ下手だと言っています。
そんな彼は、近藤勇や沖田総司と共に将軍の護衛をする浪士組に志願するために、京に上ります。
新撰組伝説のはじまりです。
その際、実家に合計41句を収録した自身の句集「豊玉発句集」を残していきました。
これは現在でも、東京都日野市の土方歳三資料館に収められています。
その文字は、相当な達筆であるそうです。
この句集の最初に、土方歳三の渾身の作と思われる一句が、一ページを丸々使って掲載されています。
差し向かう心は清き水鏡
土方豊玉
句意は、近藤勇や沖田総司などと相対して坐っており、その心は水鏡に写したように同じ理想を宿していて清らかである。という解釈。
あるいは、これから京に上ることを目前として、その覚悟のほどを詠っているとも取れます。
どちらにしても、土方の本心を正直に表しており、これから彼が新撰組副局長として雷名を轟かせることを想うと、格別な感慨が湧いてくる句だと言えます。
これ以外の句に関しては、のんびりとした多摩の生活を詠った句が多いです。例えば、
おもしろき夜着(よるぎ)の列(ならび)や今朝の雪
こちらは、今朝降り積もった雪を見物しようと物見高い人たちが夜着のまま列を作っている、という意味です。
幕末というと激動の時代というイメージがありますが、こちらの句からは、のんびりした情感が伝わってきます。
次のような句もあります。
しれば迷いしなければ迷わぬ恋の道
土方歳三というと、剣の道に生きた非情のラストサムライというイメージがありますが、意外と恋の詩も作っているのです。
内容は月並み、平凡かも知れませんが、彼の内面を知る上での歴史的資料として、大変興味深いものです。
出自・家族構成
1835年、東京都日野市の裕福な農家の10人兄弟の末っ子に生まれました。
この家は、戦国の昔には、普段は畑を耕しているけれど、戦があれば雑兵として駆り出される農兵の家系でした。
土方歳三が武士に憧れていたのも、そういった家柄が背景にあったと考えられます。
祖父は三月亭石巴という俳人です。
姉の夫である義兄・佐藤彦五郎も俳句を嗜んでおり、春日庵盛車という俳号を持っていました。彼は新撰組の後援者として有名で、近藤勇と義兄弟の杯を交わしています。おそらく、土方歳三とは、俳句同好の士としても馬が合ったのでしょう。
佐藤彦五郎は以下のような土方の追悼句を詠っています。
待つ甲斐もなくてきえけり梅雨の月
春日庵盛車
職業・仕事
江戸幕府の京都警備組織である新撰組のナンバー2、副局長です。
「蝦夷共和国」においては陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取という肩書きを持っていました。
没年
明治2年5月11日(1869年6月20日)に蝦夷の箱館戦争で戦死しました。
享年35歳です。辞世の句は、
よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ
俳号
豊玉(ほうぎょく)です。
句集「豊玉発句集」を残していますが、俳句の腕前は下手の横好きというレベルのものでした。
歴史に残る賢才な人物たちは必ず、逝く直前に和歌(辞世)で最後の告白をされています。
その時の精神状態はいかなるモノだったのか?
歴史教科書では絶対に習う事の出来ない歴史に埋もれた真実の精神史を解析した中から、今回は「土方歳三の告白」を提示します。
土方歳三さんと言えば、新撰組。彼は武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)の農家の生まれで新撰組の副長だった人です。彼が死にゆく直前に言い残した最後の言葉は以下の通りです。
★原文【法 可シバ 命ニ愚痴ヌド 持タズ義 微言ワバ 暴ラ 没義ク】
★解説・・・「法を遵守し、従えば、命令に対しては愚痴ぬが、今となっては大義が無い。一言、言えば、暴徒は道義に背く行為である。」
最後の決戦だった函館戦の時、新撰組は既に大義を見失っていたという事。土方さんはこれを「持たず義」と明言しています。この「義」とは幕府の大義です。新撰組にとって、大義の無い戦争は非道極まる暴動行為であるとも述べています。土方さんは新撰組が新政府軍に勝てるとは思っていなかった事もこの“言い分”で窺い知る事ができます。彼は農家の出身でしたが新撰組浪士として、潔い死を望んでいました。周知の通り、土方さんは突撃して、戦死されています。
土方さんの死後、新撰組の後援者だった、佐藤彦五郎さんが追悼歌として、詠んだ歌の中には土方さんのように消え伏せた大義であってもこれを貫き通し、潔く死にきれなかった自身を悔いる部分があります。
★原文【統ブハ武張ズガ言イモ 反テ義 栄レリ言イ 風儀セジ吾】
★解説・・・「戦争で日本を統一する事は間違いであると言い、幕府の大義に背き、新政府の繁栄を望んだ事、私は幕府に忠義する武士道に背いた」
新撰組の後援者だった佐藤彦五郎さんは土方さんのように大義を貫き通す事が出来なかった事を新撰組後援者として恥じ、悔いている事を追悼歌で亡き土方さんに打ち明けて、深く詫びた内容です。
●追伸
俳諧にせよ、辞世の句せよ俳句には景情を詠む裏に必ず、作者の本音が認められています。ただ単に景情語句を並びたてた俳句ではなく、一生に一度でもイイですから、和歌の極意に迫る“本当の俳句”に挑戦してみてください。