俳人・飯田 龍太は、その著書『無数の目』(角川書店,1972年)において、つぎのように語っています。
「仮に没になった作品でも、一か年は句帳にとどめておくこと。
一年経って、なお執着をおぼえる句であったら、その作は、作者にとって捨てるべきものではない。
まさにその人の句だ。自作への愛着は、何ものにも優先する」
飯田 龍太『無数の目』
私はこの『自作への愛着は、何ものにも優先する』という言葉が好きです。
俳句を作ろうとするとき、どうしても他人の目を気にしてしまいます。
思いついた句を妻の前で発表すると、たいてい苦笑いされ、時にはケチョンケチョンに批判されるのですが、それでも自分では「良いデキだな」と思って、密かに胸にしまっておく句があります。
『傑作でなければ、作る価値がない』
などと考えてしまうと、句が浮かんでこないばかりか、俳句を作る楽しみすら、失われてしまいます。
文芸の本当の価値は、傑作を作ることによって、他人から賞賛され、名声や金銭的報酬を得ることではなく、創作する過程にあると、私は考えています。
自分の感じたこと、表現したいことを形にする喜び、そしてそれを他人と共有するコミュニケーションの過程こそ、俳句本来の楽しさではないでしょうか?
2010年に群馬県で、中高生が短歌コンクールに盗作作品を応募し、賞を受賞したものの、後に盗作が発覚して、受賞取り消しといった事件が起きました。
こういったことが起きるのも、傑作を作ることだけに力点を置いた教育を子供たちに施した結果ではないかと思います。
文芸の本来の楽しさを教えることなく、表層の名声のみを求める心を子供に植え付けてはならないでしょう。
盗作した作品など、いくら賞賛されても、自分の中から出てきた物では無い以上、なんら愛着が湧かず、むなしいだけです。
例え、下手な句であっても、自分の表現したいことを表現できていた方が、何十倍も価値があると思います。
以上のようなことを夕食の席で妻に話したら、あきれたような目を向けられました。
私の俳句が上達しない言い訳だと思われたようです。
……二割くらいは文芸を真摯に探求する心からの言葉だということに、彼女はもっと着目すべきでしょう。
というわけで、今日も、下手の横好きで俳句に取り組んでいます。